高島屋飯田との合併
わが国の貿易を伸展させるためには貿易商社の強化を図る必要があるとして、政府は1952年(昭和27年)に商社強化策を打ち出した。そうした中、長い歴史を持つ中堅商社の高島屋飯田株式会社は、大豆の相場下落で損を抱えていたことから、主力銀行の富士銀行は同社再建のためには他商社との合併しかないと判断し、当社に協力を申し入れた。当社も合併は国策に沿うとの観点からこれに同意し、1955年(昭和30年)9月1日、両社は合併して社名を丸紅飯田株式会社(Marubeni-Iida Co., Ltd.)とした。
高島屋飯田は1829年(文政2年)に今の滋賀県高島郡出身の飯田新七が京都に古着・木綿小売商を開業して屋号を「高島屋」としたことに始まる。その後、呉服や雑貨も扱い、貿易にも注力するようになった。1916年(大正5年)に貿易部門が独立して高島屋飯田株式会社が発足し、1919年(大正8年)には呉服・小売部門も独立して株式会社高島屋呉服店となったが、これが現在の高島屋である。
高島屋飯田は合併直前の1955年度の売上高は318億円で、商品別には繊維44%、非繊維56%となっていた。特に、鉄鋼では八幡製鉄・富士製鉄の指定問屋グループ「十日会」のメンバーとして国内取引に強固な地盤を持っていた。また羊毛、原皮、機械、燃料などについても有力な商権を持っていたことから、合併によってこれらの商権を引き継ぎ、当社が繊維商社から総合商社へ発展する大きな転機となった。
1960年(昭和35年)、政府は所得倍増計画を発表して経済の高度成長が始まり、鉄鋼、石油化学、合繊、自動車など重化学工業が発達した。そうした中で、当社は1956年(昭和31年)には原子力部を設けてわが国最初の原子炉を米国から輸入し、翌年には化学品部を新設して米国のポリエチレン製造技術を昭和電工に斡旋、1958年には日産自動車の乗用車の対米輸出を開始するなど新規事業分野を積極的に開拓し、機械を中心に非繊維部門の売上が大幅に増えた。その結果、高島屋飯田と合併した1955年度に65%だった繊維の売上比率は、1959年度には50%、1964年度には35%にまで低下した。
売上高も1955年度に1,989億円であったものが1960年度には6,127億円と3倍以上になり、1964年度には1兆1,351億円と1兆円の大台に乗った。この間、新入社員の積極的な採用により、従業員数も1965年(昭和40年)3月末には5,943人に増加した。また、新丸紅発足当初わずか4社だった関係会社数も、多くの企業に出資したり、新会社を設立したりして、1964年(昭和39年)には国内だけで70社となった。資本金も1963年(昭和38年)には150億円と、発足時の100倍の規模に達した。
1964年5月、新丸紅発足以来14年あまり社長として当社を引っ張ってきた市川社長が会長に就任し、檜山廣副社長が社長に昇格した。

